合理的の意味
最近、自分の周りで、合理的ではないなと感じる出来事が起きたり、聞くことがあったりしました。
ふと、「合理的」という言葉を、ちゃんとその意味を理解せずに遣っているような気がしまして、その意味をググってみました。
1 道理や論理にかなっているさま。「―な自然界の法則」
2 むだなく能率的であるさま。「―な処置」
とのことです。
合理的(ごうりてき)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 – goo国語辞書
そして、「道理」とは、
1 物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道。ことわり。「―をわきまえる」「―に外れた行為」
2 すじが通っていること。正論であること。また、そのさま。「言われてみれば―な話」
を意味するようです。
道理(どうり)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 – goo国語辞書
人によって違う
何かしらの意思決定をする際の、その意思決定の対象の重要度や、何が道理なのかは人によって違うように思っています。
なので、たとえ、私のなかでは合理的ではなかったとしても、他の人も同様に合理的ではないと感じるのかというと、そんなことはなく、その人なりの道理があって、それに基づいて意思決定を行っているのだと思っています。
それゆえ、人様が行った意思決定にちゃちゃを入れるべきではないと考えています。
そのように思うようにしていても、今回の件は、居てもたってもいられなかったので、いろいろと尽くしてはみたものの、無念。
残念な結果に終わってしまいました。
20代の頃の方が柔軟だったような気がする
30代後半となった現在も、税理士の世界では超若手の部類ではありますが、20代の頃に比べると、理不尽な扱いを受けることも減りました。
また、そういったことを見聞きしたとしても、適切に回避し、または、解決する術が身についてきたので、頻度という意味においては、合理的ではないなと感じることは、各段に減ってきているように感じています。
だからでしょうか、
「合理的ではないな。」
と感じてしまうと、異常に気になってしまいます。
昔だったら、
「まぁ、世の中ってそういうものだよね。」
と、受け流すことが出来ていたように思うのですが。
だんだんと、いつも小言を言っている頑固爺さんのようになってきてしまっているように思います。
いつもデスノートを思い出す
昔、デスノートという漫画が流行りました。
主人公は、はじめは、自分の正義に従って、悪者を殺めていたのですが、どんどんエスカレートして、いつの間にか正義が正義ではなくなってしまっていました。
一番最後の回だったのだと思うのですが、回想シーンで、当初の主人公の顔と、死ぬ間際の主人公の顔を見比べることができるように描かれていました。
自分の正義だけが正義だと信じ切って、心が大人になっていない人物が強権を得てしまうと、こうなってしまうんだなとショックに感じたのを覚えています。
私は強権は持ち合わせておりませんが、半端な専門知識と、まだ発展途上にある心(90代くらいになれば、心は成熟するんですかね。そんなに長生きをしたいとは思いませんが。)で、自分の正義にそって物事を判断していると、かの主人公のようになってしまいやしないかと不安に感じます。
なので、今回の件は、そっと受け流してしまおうと思います。
10年後に見返してみると、違った見え方ができるかもしれませんし。
日々精進。